金原明善の
事業毎の年表
History

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治水、利水、植林、製材、運輸、出獄人保護、北海道開拓、金融。多岐に渡るそれぞれの事業がいつどの様に興り、どの様な変遷を経て今に生きているかをご紹介致します。

  • 治水

新政府に対して天竜川治水事業の建白書を提出

明善の熱意は岩倉具視や木戸孝允らを動かして天竜川水防工事の担当を命じられる。

  • 治水

天竜川の氾濫

その直後の5月19日降り続く豪雨のため、天竜川が氾濫し、堤防4,134間が決壊。遠州平野一帯水害を被る。家屋、田畑は3ヶ月も冠水し、路上生活者も出た。

  • 治水

氾濫から3ヶ月後、ようやく政府は復旧工事に着手

政府が8月になって急に水害地の復旧工事に取り掛かったのは行幸道筋にあたる東海道を補修するためであった。しかも県にも政府にも工事費を支出しうるだけの財政的余裕はなく、明善たちは豪農、豪商、有職者たちに協力を求め、約8万両の寄付金を集めた。明善も800両の寄付をしている。
その時に派遣された役人が岡本健三郎、高石幸治の2名であった。

  • 治水

東海道および天竜川堤防の復旧工事が出来上がる

8月24日から10月2日の約40日間で復旧工事を仕上げる。この工事の注目すべき点は工事期間、ほとんど毎日各地区担当の責任者に工事費を即日現金払いとしていた。工事促進の必要から、多くの資材と労力をより早く集める手段と同時に大洪水によって路頭に迷い続けていた百姓にとって、即日現金払いは何よりの収入源となり、効果的であった。

  • 治水

明善、行在所において名字帯刀を許される

行幸のために1万両の費用を持って、128間の船橋をかけ、10月3日天竜川を渡河することになった。

  • 治水

明善、「天竜川御普請事務」を命ぜられる

以下の計画は工事費が巨額のため、政府の許可が出なかった。
・鹿島村の支川締切工事
・天竜川を分流して、その水を浜名湖に注ぐ運河

  • 治水

明善、「堤防方附属」を命ぜられる

毎年、1,000両を「堤防費用」として献納。(これは明治元年以降も1,000両を静岡藩へ献納を続ける)

  • 製材

掛塚で初めて製材機械を使用

掛塚で初めて丸鋸を使用するも、英国製で不慣れのため失敗(蒸気汽缶使用)

  • 治水

明善、天竜川堤防会社を設立

明善は会社の本質をその事業目的に即して、営利事業と非営利事業に区別して捉え、天竜川堤防会社こそ慈恵会社であると明善は述べている。
・営利事業・・・他を利するとともに自らも利する事業
・非営利事業・・・自らの利益は求めず他を利する事業(慈恵会社と明善は呼んだ)

  • 治水

天竜川堤防会社は治河協力社と改称

出資金と県からの補助金を主体に運営されることになった。
しかし、西南戦争によって政府からの補助金の削減や慈恵会社の性格上、配当金が期待できないことが災いして、設立当初から資金不足に陥った。

  • 製材

上流竜山雲折で製材機械を使用

上流竜山雲折で水車を利用して丸鋸を動かし、成功

  • 治水

明善、天竜川治水百年の計を実現しようと決意

治河協力社の事業遂行は困難を迎え、明善は天竜川治水百年の計を実現しようと決意する。
祖先伝来の財産全部を工事費の一部として国に献納して、自分の天竜川治水に対する誠意を被瀝し、政府よりは20年間毎年23,000円の下付を受け、天竜川の工事一切を治河協力者に委任することを内務卿 大久保利通に直訴した。大久保利通は明善の熱意におされ、調印。

  • 治水

家産献納額を静岡県例が受理

資産総額は6万3,516円7銭7毛。この中から金原家家産(5,000円)と明善夫妻の生活費および子息の営業資金(2,500円)を控除した。5万6,016円7銭7毛が治河協力社に下げ渡された。政府は補助金2万3000円を10年間支給することを約束。

  • 出獄人保護

岡本、静岡監獄に2年間囚われの身となる

西南の役が起こった時、岡本は国事犯として静岡監獄に2年間囚われの身となった。

  • 出獄人保護

明善、川村矯一郎と出会う

岡本が赦免された時、明善はこれを慰問し、ともに静岡監獄にあった川村矯一郎を紹介され、職業の斡旋を請われた。

  • 出獄人保護

明善、勧善会を組織する

明善は川村を天竜川の治水事務に従事させたが、岡本と川村からの監獄の内情を聞き、明善はこれに心動かされ、免因保護事業を目的とする勧善会を組織することになった。その目的は監獄教諭と放免囚を保護し、感化して生業に就かせ、再び犯罪を犯さないようにすることにあった。

  • 製材

合本興業社を設立する

明善は遠州産業開発のために、蒸気力と機械を応用し、近代的な製材事業を興す。丸鋸3台・堅鋸2台(火力による動力製材)を有する民間最大の規模を持つ大工場であったが、経営がうまくいかず、明治18年、明善の私物となる。初代社長は熊谷三郎馬であった。(明善の同志で、治河協力者の幹部であった)

  • 金融

明善、東里為替店の経営を引き受ける

「東里為替店」と称する銀行類似の金融業の経営を引き受ける。早矢仕有的らによって開かれていた丸家銀行が経営破綻に追い込まれた銀行を、希望する株主の強力で者を組織し、明善はその中で中核的役割を担い、東里為替店を設立。

  • 治水

治河協力社の解散を決意

同社が保有していた17万円の設立金のうち、移動分の10万円は県に返納され、県が受理しなかった7万円が明善の手元に残った。この大部分は先に献納した家産であって、主として土地・家屋等の不動産と債権により構成されている。つまり、金原家の財産が元のまま返ってきたということになる。

  • 植林

植林事業の決意を固め、実地調査のため帰郷

「河を治めるためには、山を治めなければ、、、」との信念の元、植林事業に着手。
古橋源六郎から植林の体験談を聞いて指導を受けた。彼は奥三河北設楽郡稲橋村の豪農で、古くから
この地方の植林に尽くした実績を持つ、明善とはこの時知り合うが、生涯を通じての親友となる。
その後、植林候補地選定を目的とする調査のため、天竜川流域の山深く分け入り、瀬尻官有林を植林候補地に選ぶことに決定。瀬尻官有林植林委託願いの手続きに関する準備をし、10月14日農商務省静岡山林事務所に出頭して願書を提出する。

  • 植林

山林事務所より通達を受ける

山林事務所より「願文趣聞届」「委託期限文儀ハ本年ヨリ来ル明治三十三年迄」と通達があり、この事業の支配人として辻五平を登用した。彼は誠実で経済的手腕もあり、経営上の意見もよく立つ支配人であった。その兄、徳平は敏腕の材木商で早くから明善の元に出入りしていた熊谷三郎馬の合本興行社にも関係していた。しかし、病気で明治21年に死亡してしまう。その後は鈴木信一が支配人となる。

  • 出獄人保護

名称を静岡県出獄人保護会社と改める

定款を作り、社団法人として名称を静岡県出獄人保護会社と改めた。
職業の紹介、宿泊、衣類または旅費の貸与、職業用の器具を給与、会社に収容して感化。正業に就かせるなどの方法で出獄人保護を行った。

  • 運輸

遠州人待望の東海道線が全通

植林・運輸・製材の三位一体化政策が必要と思っていた明善は早速鉄道による木材輸送実現の運動に着手。

  • 運輸

事業計画に着手

6月に天竜川西岸和田村半場から鉄道川線木材積入場までの軌道を敷設する事業を計画する。

  • 運輸

天竜運輸会社を設立

9月に天竜運輸会社を設立し、工事に着手。東海道線天竜川貨物取扱所を設置する。

  • 運輸

天竜運輸株式会社と改める

天竜川鉄橋南側字半場に荷揚場を並置して半場、橋羽間に軌道を敷設した。王子製紙と洋紙運輸に関し託送特約、古河鉱業の久根鉱山の鉱石運送に関しても託送特約し、木材・洋紙・鉱石の運輸を独占することに成功した。

  • 北海道開拓

北海道開拓計画を明徳に語る

  • 製材

合資天竜製材株式会社と改称する

社長は平野又十郎で、合資天竜製材株式会社と改める。

  • 利水

浜松に天竜川分水準備事務所を設置

明治28年から調査に入り、明治32年に計画を樹立させ、浜松に天竜川分水準備事務所を設置した。しかし、この大規模な計画については社会的・経済的に受け入れる力がなく中止となる。

  • 北海道開拓

鈴木幾太郎(仁一郎実兄)は北海道へ出発

鈴木幾太郎(仁一郎実兄)明善の命を受け、北海道開拓の先輩丹羽五郎に同行、北海道へ出発。東里為替店(東京市日本橋区)に金原植民場本部を置き、北海道瀬棚郡瀬棚村字目名(現、瀬棚郡今金町鈴岡)に金原植民場事務所を開設

  • 北海道開拓

北海道金原農場の開拓・経営に関する契約書を取交す

北海道の金原農場は漸次貸下地を拡張し、当時合計300万坪に達する。

  • 北海道開拓

金原農場を西・南・北金原の3地区に分つ

  • 植林

瀬尻官有林の造林が完成、御料局へ返納願いを出した

予定の期限より約2年余り早く造林が完成。
明善は人物を見分けることも上手であったが、人の使い方も上手であった。見事な成功の原因を構成する人的要素と並んで、資金の供給が順調であったことが大きい。その資金源は東里為替店であった。

  • 北海道開拓

利別川氾濫し、金原農場に浸水する

  • 北海道開拓

金原農場の水害見舞いのため、喜一を同伴北海道へ出発

一ヶ月の滞在の後、帰京

  • 植林

宮内省から金盃や金が下賜された

瀬尻御料林の功に対して、宮内省から金盃1組、金5万円が下賜された。

  • 金融

東里為替店を合名会社金原銀行に改組

前年の明治32年10月11日付で大蔵省より合名会社金原銀行設立を認可され33年1月1日を期して開業。

  • 製材

鍛治職人の鈴木宗五郎と天竜製材の大龍太平が出会う

  • 利水

財団法人金原疎水財団を設立

明善はこのような情勢では実現が困難であるとして、金原林1,200町歩、400万本の造林地を提供して天竜川分水事業に充てることにした。

  • 運輸

明善は取締役を辞任

後任は鈴木信一が就任。

  • 運輸

巳三郎に持株を全部譲渡

  • 利水

浜名耕地整理組合を設立

浜名郡下、浜松町他24ヶ町村の耕地面積1万町歩にわたる耕地整理事業を企て、浜名耕地整理組合を設立。この事業は取水源の一つとして、天竜川流水を二俣町西鹿島地先に置いて取水し、用水幹線を開削するとともに排水路を改良して、全区域の区画整理を行う計画であった。

  • 製材

天竜木材株式会社を設立する

資本金25万円、専務取締役は鈴木信一、常務取締役は稲勝清三郎・林文吉で設立。
天竜木材株式会社と明善は法律上は何らの関係も存在しないが、役員陣の中には息子の明徳、竹内龍雄、平野又十郎、中山誠一、稲勝清三郎ら、門下生や同士が名を連ねているから明善の息のかかった会社ではある。

  • 製材

天龍鉄鋼合資会社を設立

地元製材所で限界まで使用され、廃棄されるはずの輸入丸鋸を修理・改造できないだろうかと考えた。鈴木宗五郎と大龍太平は時間をかけて、天龍製材と天龍木材に話しかけて両者が2,000円を出資し、天龍鉄鋼合資会社を設立。

  • 製材

天龍製鋸合資会社と改める

資本金2,450円、天龍鉄鋼合資会社と天龍製材と両者出資の形で設立。

  • 出獄人保護

組織を変更して財団法人静岡県勧善会と改称

明善は事業の重要性を広く世の中に理解してもらうためには費用もかかるため、寄付金募集に努力した。自ら揮毫、1件1円以上での寄付を募り、この頃80歳を過ぎ、病もあったが2000枚以上揮毫した。

  • 運輸

浜松軽便鉄道株式会社を設立

  • 製材

天龍製鋸株式会社と改める

資本金3万円、社長は鈴木信一で改称。

  • 運輸

浜松鉄道株式会社に社名を戻す

  • 北海道開拓

北海道金原農場に澱粉工場設置

  • 金融

金原銀行、株式会社に改組する

銀行をより一層発展させるために、資本金100万円の株式会社金原銀行を設立する。当時明善は病床にあったため、頭取に養孫の金原巳三郎、常務取締役・支配人に阿部弥三郎を選任した。

  • 北海道開拓

北海道金原農場に、石油発動機を設備せる澱粉工場設置

  • 利水

金原疎水財団は金原治山治水財団へと改称

金原疎水財団は金原治山治水財団へと改称し、同財団が地元の工事負担金を金額寄付したことによって、浜名用排水幹線改良工事が着工された。

  • 金融

金原銀行、三菱銀行に吸収される

昭和に入り、戦時色が強まると、政府は戦時経済体制の確立に向けて銀行合併を加速させる。こうした政策を受けて、金原銀行も三菱銀行に吸収され、その歴史に幕を閉じる。

  • 運輸

日本通運株式会社と合併

戦時中一駅一店制の国策にしたがって、この年日本通運株式会社に合併され、日通天竜川支店となる。

  • 利水

三方原農業水利事業 完成

  • 利水

天竜川下流水利事業 完成

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