金原明善とは
「国家社会公共のための事業活動」を信条とした江戸・明治・大正の実業家、社会事業家。
自身は節倹に努め「あばれ天竜」の異名で地域住民を苦しめていた天竜川を、事業で得た全財産を投じて堤防の改修工事を始める構想を時の内務卿大久保利通に申上、同意を得る。治水事業に加え、植林や運輸、製材、製鋸等の治山関連事業を興し、全国各地で実地指導も行う。また東京で銀行、小売等の事業、北海道の開拓も展開。出獄人保護事業(現在の更生保護)の源流となる事業も興した。
金原治山治水財団
金原治山治水財団は、「天竜川の治水事業」「植林事業」「天竜運輸」「天竜木材」の創設、「北海道の開拓」さらには、現在の更生保険制度の原点といわれる「出獄人保護事業」など、近代日本の発展の礎をつくりあげてきた、金原明善翁によって設立されました。
明善生家
天保3年6月7日(1832年)遠江国長上郡安間村に久平(安間村名手)の長男として金原明善はこの家で生まれました。生家の改修にあたり、家の土台や主な柱・梁などは、当時のものをそのまま使用しました。 なお、展示品は歴史的に貴重な資料や遺品など多数あるため、順次入れ替え、展示しています。
2024.08.29
朝日新聞「ボランティアが支える保護司制度 ルーツは」にて金原明善が特集されました。
2024.01.14
第101回明善祭が執り行われました。
2023.01.24