国家社会公共のために一生を捧げた
稀代の社会実業家
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「国家社会公共のための事業活動」を信条とした江戸・明治・大正の事業家、社会事業家、金原明善。

  • 実を先にし名を後にす
  • 行を先にし言を後にす
  • 事業を重んじ身を軽んず

を信条に、事業を通じた社会的課題の解決に私財と一生を捧げた。

自身は節倹に努め「あばれ天竜」の異名で地域住民を苦しめていた天竜川を、事業で得た全財産を投じて堤防の改修工事を始める構想を時の内務卿大久保利通に申上、同意を得る。

堤防改修の為に水利学校と治河協力社を創設。また洪水の抜本的原因となる上流の山に対して大規模な植林事業を開始。 事業としての持続可能性を高めるため、山から間伐される木材を高付加価値化する製材事業 新式機械製材(後の天竜木材株式会社設立)、それらの輸送を円滑にするための天竜運輸(後のJR天竜川駅誘致)、作業効率を上げるための新式機械製材(天竜製鋸株式会社が設立)の治山関連事業を興し、 瀬尻官林、金原林の植林で培った治山のノウハウを天城御料林の経営や、広島、岡山、岐阜、富士山麗など全国各地で実地指導を行った。

治山、治水に加え、浜名湖や三方原へ分水することで田畑への水の供給、木材の運搬を実現するための利水(疎水)事業も設立。
東京では金原銀行(昭和15年に三菱銀行に合併)、井筒屋(小売)、北海道の開拓(金原農場、金原小学校)も展開。出獄人保護事業(後に静岡勧善会)の源流となる事業も興した。

これらの事業は現代でもなお継続されており、後世の公共のために持続可能な事業を立ち上げ続けた明善の偉業は、国際開発目標である「SDGs」とも深く共通するものであると考えられる。

事業経営の
基本方針

国家社会公共のための事業活動を一義とした明善。

  1. 身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。
  2. 事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。そして、その事業が大きくなるに従ってその資本は共同出資方式にならねばならぬ。
  3. 事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に俟たねばならぬ。

という信条を元に、蓄財の為の事業とは一線を画した経営を行っていた。

同じ社会貢献だとしても、利益からの余剰を寄附に回す、という考えではなく、国や地方の課題解決の為の資本を作る為に事業を興し、得た利益を別の課題解決の為の事業作りに用いるという構想であった。

また「金は値打ちのない場所(都会)で儲けて、値打ちのある所(地方)で使え」という考えのもとに、東京で複数事業を興し、遠州地方の治山、治水、利水事業へと投資し、持続可能な経営を志していた。

道徳心〜論語

金原家先代から受け継いだ商才に加え、明善自身は広く儒教に学び、 道徳心を養ったとされる。

“本を読むということ”を、物事を知り、覚えるということではなく、何よりも“自己実践の糧”にするという事と捉え、四書五経を中心に「このときはこうすればよかったものを、何故ああしたか?私ならこうすると、本を相手に相撲をとる」という考えで読書に勤しんでいた。

「修身斉家治国平天下」という儒教の教えを元に、自身を厳しく律し、節倹に努め、事業を興し続けた明善の道徳心の礎は、論語を元に形成されていった。

遠州地方

大きな権力がなく、よそものを排除しない自由さ、民が強い独立の気概を持っていたとされる。
そんな土地柄がゆえか、金原明善、豊田佐吉(トヨタ創業者)、本田宗一郎(ホンダ創業者)、鈴木道夫(スズキ創業者)などの数々の事業家が生まれ育ったと考えられる。
  
1962年、今の浜松市で発見された浜北人の人骨。1万8000年ほど前の旧石器時時代の人骨が本州で発見されたのはここだけである。
北はアルプスに連なり、西に浜名湖、東に御前崎や牧之原台地、南には青い太平洋が広がる広大な遠州地方を二分するかの様に流れる天竜川。
「暴れ天竜」と呼ばれ、洪水が頻発した天竜川ではあるが、洪水を上回る生活上の恩恵があり、古くから人が住み着いた土地であることが証明されている。

過去の文献から見られる遠州人の気概

  • 江戸時代末期、今の磐田市にあった中泉代官所の役人は「前任者から激しい水害のために天竜川流域の民風が“険悪”で、収めるのは容易ではないと聞かされていた」と書き残している。
  • 室町時代の書とされる「人国記」は遠江(遠州)、駿河、伊豆の気質について要約すると次の様に述べている。
    ー遠江はものを頼みにしてへつらうところがあるが、知恵があって気が強い。駿河は度量が狭い。思慮深いが頑固なところがある。伊豆は天然の気質を受けて清らかだが、一時の気分や的なところがあるー。 
  • 昭和の民俗学者宮本常一にとって、天竜川は上流から下流まで旅した少ない川であったが、暴れ天竜を退治し、遠州を穏やかな地にしたという金原明善を讃え「遠州平野の民家は実に美しい。いかにもキチンとしたたたずまい」と書いた。
  • 旧清水市出身の経済評論家竹内宏は「勤勉。よそ者を受け入れる。独立独歩。激しいライバル間競争」と評した。

やらまいか精神

“ジャーナリストの梶原一明が1980年に出版した「浜松商法の発想」で使い、広まったとされる。遠州は温暖で、日照時間が長く、西風が強い。「暴れ天竜」といわれた天竜川の度重なる洪水に悩まされ、戦った。江戸時代、協力な領主は不在で「お上=官」の力が弱かった。東海道のおかげで、人と情報の交流が盛んだった。これらは間違いなく影響を与えたであろう。”
 
“明治初期には浜松県があった。静岡県に統合されると、浜松県の復活を求める建白書が1883年(明治16年)に出された。要約すると「遠州と駿河は人情と風俗を異にする。遠州は自立の精神に富み、興行で駿河に先んじている。独立すれば競争で富国につながる」やらまいか精神は古くからあったようだ”
 
“名を残した遠州人の軌跡を調べていると、驚くほどの共通点を感じ、胸を熱くすることが少なくない。自分のやりたいことや夢に向かって一心不乱、猪突猛進に突進する。「弱い官」は権威や形式に頼らず、自立の気概を産んだ”
 
“代表はホンダを創業した本田宗一郎である。私は長く経済記者をしてきたが、本田は最も評価される経済人の一人だ。独創的な製品作りが最大の理由だが、学歴より実質を重視し、自動車産業への新規参入を規制しようとした通産省に猛反発した痛快なまでの「真摯さ」。早く後進に道を譲り、道が渋滞してはいけないと社葬を禁じた「潔さ」。遠州の美質を考えたい”
 
“長所は短所でもある。積極的風土は、粗野で慎重さを欠く面がある。優雅さとも遠い。短所を自覚して長所を伸ばしたい。”

朝日新聞静岡版連載「遠州考」より引用


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